家族

「家族」に興味があります。

 

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 社会に出ていろんなひとと働くなかで、ひとを傷つけ、ひとによって傷つき、しんどかった去年の夏、自分の対人関係能力の輪郭をかたちづくってきたものの正体は自分が自らの家族と育んできた関係性であるということを知って、夏から秋にかけてご近所のゆうみさんと杉本さんにメンタリングしてもらいながら、自分の家族に対する客観性を身につけるべく過ごしてきました。それは、自分はどこからやってきたのだろう?という問いを重ねる旅で、もしかすると思春期に経験するひともいるのかも知れません。自分の足元を見つめてはおろおろとし、それでも自分を奮い立たせて一歩ずつ歩く、といった様でした。

 

そんな風にして自らのルーツを少しずつ受けいれられるようになり、いまとこれからに目を向ける余裕をもって「これからの家族」を思ったとき、ハタと立ち止まりました。ぐるぐるとめまぐるしく変わっていく社会の風にさらされながら、自分のなかに立ちあらわれる「家族」のイメージはどれも旧態依然としていて、何となく息苦しい。自分が抱くこのイメージを解きほぐしたい、自分と身近なひとたちとの関係性を気持ちよくデザインするための出発点を築きたい。

そんな思いから、いまの私たちが思い浮かべる「家族」像はいったいどこからやってきたのか?、今春からこつこつと調べています。

 

思えば、「家族」は社会における最小単位のコミュニティ。いつの時代も、どこの地域にあっても、ひとはみな誰かの家族だったけれど、その姿・かたちは、そのときどきの社会によって特徴づけられてきました。「これからの家族」をデザインするために、いままでの「家族」をつくってきたものが何だったのかを知ることは、ちょっと役に立つような気がしています。

 

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お盆に先駆けて、母の実家へ。変わるもの、変わらないものが混在するなかで、自分たちが大切にしたいと選びとってきたものたちが残っているんだなあ、と思いました。

路上のおもしろさ

先月、ふと思い立って、実家の家の前でフリーコーヒーを淹れてみました。

 

テーブルを出し、コードをひき、コーヒーを淹れる道具をセットすれば、びっくりするくらい簡単に準備は完了。看板も即席でつくり、コーヒーマシンの隣には実家に眠っていた私物の本を並べました。

 

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ガサゴソひとりで準備しているときから、ふっと立ち止まりじっと眺めては去っていくがいたり、声をかけてくるひとがいたり、通り過ぎていくひとがいて、その出来事ひとつひとつがとてもおもしろい。

家のガレージに椅子をならべて、コーヒーを淹れはじめると、香りにつられてひとりふたりと集まってきて、とあるおじいちゃんが座ったと思えば、通りがかりの彼の知り合いが立ち寄り、その知り合いが知り合いを呼び、一時ガレージがおじいちゃんおばあちゃんで溢れかえったりもしました。

 

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実家に暮らしていたとき、家の前の通りはパッとしない「いつもの通学路/通勤路」で、私はあくまでもその路の利用者だったけれど、コーヒーを淹れているとき、いま私はこの路上のつくり手なんだという気持ちになって、そこから見える景色は非常に鮮やかだった。きっとすべての路上には余白があり、別に特別な名目なんかなくたって、誰でもそこにひととひととの接合点を生み出すことはできるのでしょう。

 

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なんだか路上がどんどんおもしろくなってきました。

今週の日曜はmeguriの事務所@日暮里の長屋でコーヒーを淹れる予定です。

 

▼路上について、読んだ本

・影山裕樹『あたらしい「路上」のつくり方』(DU BOOKS, 2018年)

・田中元子『マイパブリックとグランドレベル』(晶文社, 2017年)

好敵手

ひなこという友人がいます。

18歳、法学部の門を叩き最初に入ったゼミで彼女と出会ったときの印象は、「ああ、こんなに賢いひとがいるんだなあ」。大学生活を共に過ごすなかでその賢さは彼女のたゆみない努力に裏打ちされたものであるということを知り、こっそりと、「ひなこと対等に議論ができるようになりたいな」そう思ったときから私はゼミでの取り組みに没頭するようになりました。私にとってひなこはずっと、友人であり、好敵手でした。

 

そんなひなこが去年の夏に私の勤め先(株式会社meguri)にインターンとしてやってきて、今月末で卒業。つい先日、9ヶ月間にわたるインターンの報告会が開かれました。

 

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一年前「社会に出たい」という思いを胸に大学院を飛び出し、今春の就職までの期間をmeguriでインターンとして過ごした彼女。自分のなかの迷いやもどかしさを断ち切るように、目の前の相手や仕事と真正面から向き合い、捉え、放たれた球をひたすらに打ち返す彼女の姿勢はいつもまっすぐで、凛として、泥くさくもとても美しかった。18の私の背中を押してくれた彼女の風を再び感じることができたから、転職一年目の私も日々を夢中で駆け抜けることができたのかも知れません。

 

報告会には就職先(浜野製作所)の社長もお越しになり、meguriから浜野製作所へのバトンタッチが行われました。

 

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(浜野製作所・浜野社長)

 

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(meguri杉本さんから浜野社長へのバトンタッチ)

 

ひなこと過ごしたmeguriでの日々は、きっと忘れることはできないな。ほんとうにありがとう。お疲れさまでした。

本と屯

神奈川は三浦半島の南端に、三崎という港町があります。

京急線三崎口駅からバスで15分の「三崎港」で降りるとそこには、ちらちら光る波のさざめく港がひろがっていて、ぴゅ〜と海風が吹いてくる。この三崎というまちに、ミネシンゴさんとかよこさんご夫婦による出版社・アタシ社が営む蔵書室「本と屯」はあります。

 

おふたりの編む本が大好きで、「本と屯」を目指してはじめて三崎を訪れたのが去年の夏。三崎のバス停で降りたとき、東京のうだる暑さに疲れていた身体にからっと気持ちよい港の風が吹き込み、海辺に立つと、かつてしばらく暮らした八重山の島々が思い出されて、懐かしくもせつない気持ちになったことを覚えています。

商店街に足を踏み入れてほどなく「本と屯」にたどり着き、なかにはいった瞬間、心がわさっと震えました。棚やいたるところにひしめく本、土間でくつろぐまちの子どもや大人、そこにいるひと皆がそれぞれに居心地よさそうに自由な時間を過ごしていて、私は何だか夏休みのある小学校時代にかえったような気分でした。

 

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(夏、かよこさんと/たまたまふたりとも青いワンピース)

 

これまでめぐり会ったひとや場所に対して、「何故だか分からないけれど、自分にとってものすごく大切なものがあるような気がする」という漠たる思いを幾度か抱いたことがありますが、「本と屯」に対してもそう。そこにあるであろう「大切な何か」を見いだすべく、自然と感性が研ぎ澄まされていく感覚があります。静かな森に足を踏みいれたときのような。

 

秋、冬、そして春、期間をあけて何度か足を運ぶたび、三崎の景色は表情を変え、ただ揺れる波を見ているだけで胸がいっぱいになった日もありました。今年はどんな景色が見れるでしょうか。とても楽しみです。

 

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(「本と屯」で仲良くなった女の子(写真三枚目)がとてもきれいに皆の写真を撮ってくれました、すごい)

ブログ開設

ブログを書いてみようと思い立ちました。

東京で生まれ育ち、就職をして二年間、沖縄の八重山諸島、長野、岐阜を転々とし、昨春の転職を機に東京へ戻ってきてもうすぐ一年が経とうとしています。まとまらない思いを携えてぐるぐる歩き回る日々ですが、この軌跡を、どこかに書き記したい・表現したいという衝動が突如として身体をかけめぐりました。

ボタンを押したらあっというまに開設できてしまったこのブログのタイトルは、amari(余り)としました。頭と身体を目一杯使って生きながら、いつも心に余白をもっておきたいと思っています。

 

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写真は、大好きな神奈川・三崎の蔵書室「本と屯」で出会った女の子。

さて、続くでしょうか。